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日本百街道

[さ・た行]

佐用町(兵庫県)Web
写真 因幡街道いなばかいどう
佐用町は、東西に出雲と大和を結ぶ出雲街道と、南北に吉備と因幡・但馬を結ぶ因幡街道が交差する交通の要衝で、古くから街道の宿場町として栄えてきた。
因幡街道の宿場町 平福では、川沿いに川屋敷が立ち並び貴重な歴史遺産となっている。土蔵や商家の町並みは、高瀬舟の往来により人や物資、文化の交流拠点として賑わいをみせた当時の面影を今に伝えている。

塩尻市(長野県)Web
写真 中山道なかせんどう
塩尻市には中山道67宿のうち、5宿(塩尻、洗馬、本山、贄川、奈良井)があり、さらに漆工町として木曾平沢がある。
奈良井宿は昭和53年に宿場町として国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に選定され、木曾平沢は平成18年に全国で初めて「漆工町」として同選定を受けている。両地区とも町並み保存活動に取り組み、当時の面影を色濃く残している。

静岡市(静岡県)Web
写真 東海道とうかいどう
静岡市には、江戸時代の五街道の最も重要な道である東海道の6つの宿場(蒲原、由比、興津、江尻、府中、丸子)があり、当時の建築物や史跡などを数多く残している。さらに、唯一昔と変わらない風景を眺めることができる薩埵峠と、国指定史跡に指定され、伊勢物語の舞台にもなった蔦の細道がある宇津ノ谷峠のふたつの峠がある。
1月から3月は、富士山の絶景と温暖な気候により、多くの人が街道ウォーキングに訪れる。

下田市(静岡県)Web
写真 下田街道しもだかいどう
三嶋大社を起点に天城峠を越えて下田に至る幹線街道。国道414号、国道136号にあたり、現在も主要な幹線道路である。
ハリスや吉田松陰などの歴史上の人物や、川端康成など多くの文豪たちが歩いた街道である。

墨田区(東京都)Web
写真 鎌倉街道下ノ道かまくらかいどうしものみち
鎌倉と下総・上総を結ぶ道は、古くから「鎌倉街道下ノ道」と呼ばれていた。源頼朝が常陸国の佐竹氏討伐や奥州征伐に使用したとされる。
近世に入ると、江戸の中心部が明暦3年(1657)の振袖火事により焼失したため、災害対策の一環として武家屋敷が向島へと移動。同時に、竪川、大横川をはじめとして、河川の掘削や南北割下水、碁盤目状の道路整備が行われた。

高岡市(富山県)Web
写真 井波道いなみどう
井波道は、高岡城下の中心部から庄川の左岸に沿って高岡の開祖前田利長の菩提寺である国宝瑞龍寺、寺町、さらに神主町を経て井波へと続いていた。
国宝瑞龍寺から神主町、新高岡駅付近までは、城下町建設時に整備された庄方用水が街道沿いを流れるなど、往時の風情を残している。

高浜町(福井県)Web
写真 丹後街道たんごかいどう
京都の丹後と接する若狭最西端の町・高浜は国境の要衝で、戦国期には若狭国守護武田氏により高浜城が築かれた。
江戸時代は、小浜藩酒井家の領国となって町奉行が置かれ、大飯郡の年貢米を集める蔵屋敷がつくられた。
近世の高浜は旧城下を中心とした町方と漁港の浦方に分けられ、海上交通と丹後街道の宿場町として発展。今も、旧丹後街道に沿って古い町並が残されている。

高山市(岐阜県)Web
写真 飛騨高山ひだたかやま歴史街道れきしかいどう
1586年に飛騨国主となった金森長近は城下町形成と同時に街道整備を行って東西南北の街道を城下町に引き込み、高山城下は流通経済、政治、文化、交通の要所としての役割を果たした。現在も市中に歴史的景観・環境として残り続け、街道沿いの農山村集落を中心に街道の保存活用が取り組まれている。

智頭町(鳥取県)Web
写真 因幡街道いなばかいどう
鳥取城下を出発して用瀬を経て智頭町に入り、志戸坂峠を越えて岡山県西粟倉村を経由、兵庫県姫路市に至る道で智頭往来とも呼ばれている。智頭往来の歴史は古く、平安時代にはすでに官道として道が通っており、畿内と因幡地方を結ぶ重要な道として、江戸時代には鳥取池田藩の参勤交代に使われるなど、上方への主要道として重要な役割を担ってきた。
智頭宿は、鳥取藩初代藩主池田光仲侯の参勤交代の宿泊地となってより、町並みも整い宿場町として繁盛した。町内には往時の繁栄の名残を伝える道中安全を願った大日如来や地蔵など近世の石造物が数多く残されている。
智頭町内には約21kmにわたる古道が現存しており、そのうち智頭町山郷地区に残る志戸坂峠を中心とした約2.5kmが国史跡に指定されている。

中央区(東京都)Web
写真 五街道ごかいどう(東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中)
徳川家康は政治・軍事上の必要から、江戸幕府の成立と同時にいち早く江戸と全国を結ぶ道路網の整備に着手し、特に重要な街道として「五街道」に力を入れた。日本橋は五街道の起点であり、日本の中心・江戸繁栄の象徴となった。橋の中央には「日本国道路元標」、橋の北詰には「東京市道路元標」が保存されており、近代に入っても道路の起点となっている。
現在は日本橋と交差する高架高速道路が架かり、橋の美観や風格が損なわれている。かつての「陽光がふりそそぐ日本橋」をよみがえらせるため、日本橋に深い愛情を持った町会、企業等によって、橋洗いなどの保全活動やPR活動が活発に行われている。

千代田区(東京都)Web
写真 甲州街道こうしゅうかいどう
日本橋を起点とした五街道のうちのひとつで、日本橋から千代田区の桜田門、半蔵門の皇居周辺から四谷見附を経て内藤新宿、さらに八王子や甲府、さらに中山道に合流する信濃国の下諏訪宿まで38の宿場がおかれた。現在も国道20号線としてその大部分が継承されている。 

敦賀市(福井県)Web
写真 木ノ芽古道きのめこどう
平安初期に開かれ、明治初期まで千年以上にわたって敦賀と福井方面を結ぶ幹線として使われた歴史的古道で、後世に名を残した偉人達がたどった道である。
平安時代には紫式部、鎌倉時代以降は道元、親鸞、蓮如などが往来した。南北朝時代には新田義貞の軍勢が冬の峠で凍え、戦国時代には織田・豊臣軍と一向一揆勢との戦いの舞台となった。江戸時代には「おくのほそ道」の旅で松尾芭蕉が通り、幕末の水戸浪士一行は京を目指して雪の木ノ芽峠を越えた。 文化庁選定「歴史の道百選」(木ノ芽峠)に選定されている。
中部北陸自然歩道として整備されており、身近に歴史を感じることができる。

鳥取市(鳥取県)Web
写真 因幡街道いなばかいどう
因幡街道は江戸時代に整備された脇街道の一つで、播磨国姫路(兵庫県姫路市)と因幡国鳥取(鳥取県鳥取市)を結んでいる。智頭往来―志戸坂峠越(鳥取県智頭町―岡山県西粟倉村)が「歴史の道百選」に選定されており、沿線には数多くの史跡や宿場町の町並みが残されている。また、近世鳥取城下に引き込まれた街道(若桜街道・智頭街道・鹿野街道)が今も商店街としてその名を伝え、旧街道を通じた鳥取市の中心市街地と周辺との交流が進められている。

砺波市(富山県)Web
写真 砺波となみ出町でまちの道
砺波市は富山県西部の砺波平野に位置し、平野部は庄川のつくった沖積扇状地である。
「出町」とは周辺の村から出てつくられた町という意味で、近世から明治初年にかけては俗称であった。「出町」は明治22年の町村制以降周辺村落を含めた行政村としての名称になった。
砺波地域における中世の町々はもともとは山麓にあった。庄川の扇状地が拓かれたのは15、6世紀頃のこととされ、慶安2年(1649)に出町(杉木新町)の町立が行われて以後福野町・福光新町・福岡町・津沢町などの町々が4〜6キロの等間隔でつくられていった。「出町」の場所は正保3年(1646)の国絵図では戸出と城端を結ぶ道筋にある。
承応2年(1653)南町に作食蔵が建てられ、寛文4年(1664)には藩主が砺波平野へ鷹狩に来る際の休憩所として御旅屋(おたや)が建てられた。市指定文化財となっている御旅屋の井戸はその御膳水として掘られたもので、扇奥部の地下水を汲む唯一の井戸である。
寛文6年(1666)作食蔵敷地内に砺波郡の十村(大庄屋)たちが毎月一度寄合を開くための十村寄合所が置かれ、後に当町が砺波郡の行政の中心として発展する布石となった。

富山市(富山県)Web
写真 北陸街道ほくりくかいどう
加賀藩の参勤交代の重要な往還路であり、東岩瀬から水橋に至る道を「浜街道」と呼んだ。岩瀬地区は商業都市であるとともに加賀藩における枢要な港で、北前船による北海道交易の重要な拠点であった。
岩瀬大町・新川町通りには、江戸時代・明治時代にかけて北前船で活躍した豪商馬場家・米田家、平成6年に国の重要文化財に指定された「森家」などがあり、繁栄した宿場・街道の面影を今に残している。

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